2021/04/21

嫉妬に狂った男の末路

 このタイトルは釣りタイトルです。

 こんばんは、シルエットです。

 なんだか物凄く大層で深刻な題名をつけてしまいましたが、そんなことは微塵もなくて、肩の力を抜いて読める駄文雑文取るに足らない文だと思います。前回とは打って変わって、気楽に読んでいただければ幸いです。


 さて、釣りタイトルとは申し上げましたが、全てが嘘というわけではありません。一部が嘘で一部が本当。

 じゃあどこが本当なんだ。

 本当の部分は「嫉妬」「男」です。「狂った末路」はただの誇張表現に過ぎません、あしからず。

 じゃあ嫉妬とは何か?男とは誰か?

 まず、男は僕です。シルエットです。

 ともなりますと、語るべきは「嫉妬」についてですね。肩の力を抜いて、なんて言いましたが、結構この先醜い人間の感情がもろ出しなので、苦手な方はここでブラウザバックをおすすめします。


 忠告はしたので先に進みましょう。

 時は2021年。世界は核の炎には包まれませんでしたが、代わりに「ウマの炎」に包まれました。そう、幾度とない延期を経て、ついにサービスが開始された「ウマ娘プリティーダービー」。長年の延期の理由をも頷ける、圧倒的クオリティーとストーリー等の完成度の高さで、あの田中将大選手もハマる程の大人気ゲームになりました。

 ファンアートやファンノベルなど二次創作が盛んなウマ娘界隈。その人気さとコンテンツ力故に、他のジャンルで活動していた二次創作者の方も、ウマ娘の沼にどっぷり浸かり、二次創作を始められる方が数多くいらっしゃいます。

 それはハチナイSS界隈でも例外ではなく。ハチナイSS界隈では有名な某氏もウマ娘界隈に参入しました。

 ウマ娘という今を輝く作品での二次創作。彼の作品はあっという間に3桁ブックマークを突破し、ランキング入りを果たしました。


 はい、ここから僕の嫉妬ポイントです、汚い文言しか並ばないのでご注意を。

 ちくしょう、どうしてだ。どうしてそんなに伸びるんだ。ハチナイだったら3桁ブックマークを突破している作品なんて僅か6作品しかないのに。

 明らかにハチナイ作品は不当な評価を受けている。いや、評価の場が少なすぎるんだ。本来ならもっと3桁ブックマークが乱発していいはずなんだ。

 やっぱりコンテンツ力の差なのか。太い、強いコンテンツで書けば正当な評価を得られるのか。ちくしょう、なんでなんだ。

 はい、ここまで僕の嫉妬ポイントでした。

 自己顕示欲に狂った男の姿です。これが。


 さて、今回の話のオチのようなもの。

 僕は嫉妬心のなかで「強いコンテンツで書けば云々」と発言しています。それではここで僕の過去作品を振り返ってみましょう。

 7年前に東方で2作品、艦これで2作品。4年前に艦これで1作品。3年前に東方で1作品。これらはいずれも俗に言う「強いコンテンツ」での二次創作です。

 じゃあブックマーク数はどうなのか?最小0、最大18です。

 つまり、

 どんなコンテンツで二次創作をやったとしても、正当な評価を常に受けられるということ。




 ちゃんちゃん。


 以下蛇足。

 以前僕は「承認欲求」で書くべきではない、という戒めの言葉を書いた気がします。確かにそれは今も僕にとってはそうなのですが、やはり人間は欲深い生き物。多少なりとは「良い評価を得たい」だとか「感想をもらいたい」だのと思うものです。

 そんな僕の欲がこのような嫉妬心を呼び起こしたのです。僕よりも完成度の高い作品を書かれる作者さんは数多くいます。「彼」だってその一人です。

 でも、だからこそ。「上手い」とされる方々に一歩でも近づきたくて、よりよい評価が欲しい、と思ってしまうわけです。


 定期的に僕は「感想もらいたい週間」を開催しています(?)

 たまに(いや本音を言えば毎回だけど)作品の感想であったり、逆に酷評であったり、なんなりとpixivのコメント欄であったり、Twitterなどに送っていただければ幸いだなあ、なんて思っております。

 ブックマークはうれしいです、もちろん。でも、1単語でも、言葉で感想を貰えることが何よりも嬉しかったりするシルエットくんなのでした。


 おやすみなさい。

2021/04/14

名前を借りるということ

 別に名義貸しとかなりすましとか、そういう話じゃないよ。

 こんばんは、シルエットです。

 本日は僕の執筆に関する意見かつハチナイ記事なので、覚悟して臨んでください(?)


 ハチナイの二次創作をするにあたって、一番悩ましいのは「監督」という存在です。

 公式では、(半ば形骸化していますが)「監督=あなた」という位置づけがなされています。しかしながら約4年にも渡るハチナイの中で、「監督」という存在は非常に希薄で脆弱なものです。サービス開始当初は、ストーリーでも彼と有原翼とを軸に物語が進展していきましたが、女子野球という題材の性質ゆえか、次第に監督の存在は薄くなっていき、いつの間にやらストーリーでも躍動するシーンが見られなくなり、どこからともなく「地蔵」と揶揄されるようにもなりました。さらには誕生日の概念を失い、声帯さえも殺され、ソシャゲのストーリーではほとんど見ない地の文だけの出演へと成り果ててしまいました。

 このように、設定がいまいちカタマリきれてない「監督」という存在。そこに新たな光が指したのは、2018年4月28日に、小説版「八月のシンデレラナイン 北風に揺れる向日葵」が発売されたときでした。

 ソシャゲのおまけとして、ではなく明確に内容でお金を取るためのもの。ゆえにどこぞの美少女お船ゲームのアニメ版よろしく、主人公の存在を抹殺するわけにもいかず、「八上浩太」という名前と人格を与えて、今まで確立されてこなかった「監督」という存在を初めて形あるものにしました。

 この八上浩太は、原作の監督と同様に、ボーイズの絶対的エースでありながら、酷使により右肩を壊すという悲運の日々を過ごしながらも、どこか16歳の男の子らしさを残す、親しみやすく感情移入しやすいキャラに仕上がっています。さらにそれでいて、言動にも棘はなく、まあまさにラノベの主人公としてはうってつけです。

 (様々な要因から)ヘイトを集めがちな監督と比べて、小説から生まれた主人公であるがために、八上浩太が人気を集めるのは当然の摂理だと言えます。


 ……随分話が大回りした気がします。

 今日の話、「名前を借りるということ」とは何か、と言いますと主人公の名前に「八上浩太」という名前を使うことの是非についてのお話です。

 スパイス程度の設定の付加はあったとしても、その人格を大きく逸脱しうるときにその名前を使うべきはない、と僕は考えます。

(2021/04/15 16:29追伸:諸般の事情により、以下の文章を加筆修正しました。)

 決して常に原作に忠実でありたい、だとかそういう話をしているわけではなくて原作設定とかけ離れてしまうときに名前を借りるのが憚れるという話です。スパイス程度の付加は誤差の範囲です。……、まあこのあたりの違いは以下の例を読んでいただければ理解できる話だとは思いますが。

(加筆部分終わり)

 なぜか?それは先程も申し上げたように、あくまで僕の認識ですが「八上浩太」とは独立し確立された存在だからです。

 例え話をします。ハチナイの主人公といえば言わずもがな「有原翼」です。野球星人と呼ばれるほど野球が好きで、色恋沙汰にはみじんの自覚もなくて、野球脳は高いけどお勉強はからっきしだめ。多少の誤差はあるかもしれませんが、有原翼と耳にすればこのあたりの「人格」が思いつくでしょう。

 じゃあ、僕が今からハチナイのSSを書くにあたって、ストーリーの展開として「弱者が這い上がるほうが面白い」からといって、「有原翼」を野球が下手なキャラに改変したとします。

 どうなるでしょうか?

 答えは大批判でしょう。そのキャラは有原である必要がありません。なにか別のキャラを用意すればいいのです。

 この例え話では「大袈裟だ」とか「有原と八上とでは話が違う」と考える人もいるでしょう。そういった考えが間違いだとは言いませんし、否定する気はありません。あくまでこれは僕の考えですし僕の持論です。

 僕の持論だから、認識の僕のものに基づいて成り立っています。「八上浩太」は「有原翼」と並び立つ立派に確立し独立したキャラクターです。無闇矢鱈に設定をいじくり回していい存在ではない。

 これは僕の経験談です。今はもう消してしまいましたが、以前僕はハチナイを題材にしたオリジナル主人公の連載小説を執筆していました。その主人公である監督には、ストーリーの展開上名前を与えなければなりませんでした。散々に考え抜いた末、僕は「八上浩太」ではなく「野村俊哉」という別存在の名前を与えました。

 彼の設定は、八上とはかけ離れたものです。

 まず八上と違って野村は左腕でした。ボーイズ出身ではなく中学軟式出身でした。八上には恐らくいないとされる妹が野村にはいました。八上とは面識がない鈴木健次郎と野村は過去チームメイトでした。生涯対戦のなかった東雲と野村は小学生時代に対戦経験がありました。八上は小学生時代にたった一度の対戦経験があるだけの草刈レナと野村は同じ中学でした。

 ……もう少し相違点があった気がしますが、現状思い出せる限りでもこれほどの違いがある存在を「八上浩太」として抑え込んで良いものでしょうか。

 

 ところで、僕には一つ好きな概念があります。「メアリー・スー」という概念です。

 メアリー・スーの説明は長いので、あくまで簡潔に言いますが「原作へのリスペクトなく、作者自身や作者の理想をふんだんに盛り込んだオリジナルキャラを登場させ、俺TUEEEEする二次創作」ということです。あくまでこれは他人の作品にケチを付けるための概念ではなく、自分が書いた作品にケチを付けるための作品です。

 それを踏まえた上で以下の野村俊哉のプロフィールを見てみましょう。

最速144km/hの伸びのあるストレートと、変化量の多いフォークボール(132km/h)を武器とする本格派左腕。球種としてはチェンジアップ(123km/h)、鋭いスライダー(127km/h)と多彩な球種を持つ。投球フォームは和田毅を彷彿させる出処の見にくいフォーム。それに加え、走り込みで鍛えた持久力と身体の圧倒的な耐久力という持ち味もある。
 守備に関しては、強肩を持つものの送球に若干の不安を残す。守備の経験は、投手と外野手は勿論、部員不足を原因に捕手を除いた全内野の経験がある。
 打撃は、長打力はないもののミート力には群を抜く物がある。バントと言った小手技も得意だが、走力はそれほどないためにセーフィなどは苦手。
 実は生まれつきルーズショルダーを抱えていたために、左肩には相当な負担がかかっていた。結果として、酷使が原因で左肩腱板損傷という怪我を負ってしまった


 原作へのリスペクトなく、作者自身や作者の理想をふんだんに盛り込んだオリジナルキャラを作り俺TUEEEEする二次創作がメアリー・スーです。

 ある時僕は野村俊哉がメアリー・スー以外の何物でもないことに気づき、作品を未公開の海に捨てることにしました。

 じゃあ野村俊哉という存在を八上浩太に同化――異化というべきか――すれば、メアリ・スーは逃れられたでしょうか?

 答えは否。

 よく似た概念で「HACHIMAN」や「U-1」、「スパシン」というものがあります。それぞれ特定の作品での二次創作で使われる蔑称なのですが、要するに主人公を魔改造的に設定改変した作品に使われるモノで、かつ「主に作者が自主的に」使うモノです。

 先程の野村の設定を八上に引っかぶせたとするとどうなるか?

 原作設定とは何もかもが違う、かけ離れた八上に似たなにか……いうなれば「YAGAMI」とでもいう存在が生まれてしまうわけです。

 多少の付加は物語のスパイスとしては悪くないと思います。でもあそこまでやってしまったら、もうそれは八上である必要はないですよね。そういうお話なんです。


 だらだらと書き連ねましたが、せっかくブログという公開的でありながら閉鎖的(ページビューはMAXでも30しかいかないからね!)な空間なので、自分への戒めがてら考えをまとめておこうかな、と。

 以前もツイッター上でこの手の話をしたことがあるんですが、そのたびに何やらきな臭いことになりかけましたので、改めて言っておきたいのですが、

あくまでこれは僕の僕自身の執筆に対する考え方であって、他人に強要しようとかこの考えに基づいて他人の作品を評価しようなどという気は全くありません。

 マジで。

 僕がハチナイSSを書くにあたって、頑なに「監督」だとか「彼」だとかそういう表記の仕方しかしないのはこういうことです。極稀に便宜上「八上浩太」の名前を借りることがありますが、そのときはもう断腸の思いです。


 小説ばかりではなく、定期的にこういう意見文的なのも書いていきたい。どうせ誰も見てないから(笑)

 そう思うシルエットくんなのでした。

 おやすみなさいませ。


 






2021/04/12

料理って難しいね。

 「ハチナイの全国大会日記放置しておきながらいきなり更新とはいい度胸だな」と言われれば、「すまん」と返すことしかできません。

 こんばんは、シルエットです。

 いや、言い訳をさせてくださいよ。実は、毎日成績を記録するために、全試合を録画してそれをデスクトップPCで再生しながらノートPCでExcelに纏めるという作業をしていたんです。しかしながら、4月1日より新居に引っ越してからは手元にノートPCしかなくて成績をまとめる作業がほとんどできなくなったわけなんです。

 決して飽きたとかそんなんじゃないんです。5月ぐらいには様々な条件をクリアしてデスクトップPCも新居にやってくるんです。それまでの辛抱なんです。


 はい、以上言い訳でした。5月以降、気が向いたらちゃんと成績まとめて記事にします(笑)

 さて、今日僕が書きたい記事は自炊に関してのお話。

 大学生になり、初めての一人暮らし。いや、厳密には浪人生活中は寮生活だったので完全に初めてというわけではないんですけども。ただ寮では手厚い保護と朝夕の食事がついていましたからね。

 飯も何もかも一人で、とそんな生活は初めてなわけであります。

 僕は2人兄弟の次男坊でして、まあ客観的に見れば甘やかされて育ってきたのだと思います。様々な事情から、若き頃から社会経験豊富だった兄とは違って、ひたすらわがままガキとして育ってきた僕ですので、もちろん料理なんて微塵もやったことはありません。精々インスタントラーメンを作るか、戯れにチョコを溶かして固める程度のことしかできません。

 そんな僕ではありますが、いや僕だからこそ「実際料理なんてやればできるっしょ」と思っていました。(全然関係ないですが、「やればできるっしょ」精神は学生時代からあってその結果が浪人です)

 そんな歪んだ自信モンスター、ついに初めてのガチ料理に挑戦するわけです。

 迎えた4月4日。前日作ったスパム丼なんてジャンキーな飯じゃなくて、ちゃんとした料理を作ろうと一念発起。スーパーに行って食材を選び。

 僕が選んだメニューはオムライス。とはいえ、僕でも流石にきれいに包むのは無理だと思っていましたので、予め卵を焼いて、ケチャップライスを作ったあとに乗っけて疑似オムライスにしよう、そういう魂胆でありました。

 インターネットでレシピを調べ、脳内シミュレーションは万端。いざ調理。

 しかし、まあ座礁につぐ座礁。スエズ運河もびっくりの座礁っぷりでした。みじん切りは出来ない。炒めてもどんぐらい炒めればいいかわからない。なんかいい感じに混ざらない。てんやわんやどたばた騒ぎの地獄絵図。

 出来たものはこれ。見栄えこそはいいですが、野菜はどことなく半生で、大味。「手作りしたものは美味い」なんて言うものの、はっきり言えば美味しくない。ただ卵とケチャップと人参、ピーマン、玉ねぎがそれぞれ襲ってくる感じ。まとまりもなにもあったもんじゃない。

 油で洗いにくいフライパンと、ケチャップで汚れた皿を洗いながら、「こんなはずじゃなかった」とぼやきました。


 洗い物を終えて、冷蔵庫に残る具材たちを眺めながら、僕はふと思います。「いや、こんなもんだろ」と。

 浪人生活は決して僕にとって無駄なものではありません。収穫の一つは、自分に過度な期待をかけることをやめたことです。自分の技量を正しく理解し、無理のない範囲でやることをやる。そういう舵取りが出来るのです。

 ゆえに僕の自炊生活はここから大きく方向転換します。「いかに簡単で、いかに手を抜けるか」に。

 そりゃあカッコよく鍋を振るい、なんなら魚を捌けるぐらい料理に精通してるほうがモテることはわかってます。でも、それじゃあ続かない。毎日毎日レシピにある出来栄えと自分の料理とのギャップに苦しんでいたら、あっというまにインスタントに逃げてしまう。適度に自分を甘やかしながら生きていくのが一番だ。そういう結論です。

 道筋を決めれば出発は早いのが僕。まずは名だたるレシピサイトやレシピアプリを巡回し、手抜きやら時短やらのレシピを漁ります。極力フライパンは使わずに。具材を切る程度で済むものを。その一心です。

 日を変えて翌日。昨日購入した人参や玉ねぎ、ピーマンがまだ残っています。今後僕が食べそうなメニューから逆算するに、おそらくピーマンは早めに処理してしまったほうが良いだろうと判断。足りない調味料を購入した上で、調理に望みます。

 その名も「無限ピーマン」。無限に白米が進むから、そんな由来でつけれれた名前だそうです。

 作り方はいたって簡単。ピーマンを刻み、油を切ったシーチキンと合わせ、ごま油と塩コショウをかけ、レンジでチンすれば完成。

 まさに手抜き。まさに時短。

 そして味はとてつもなく美味い。飯が進みすぎておかしくなりそうなほど。

 ここから僕は一つの道を確立します。

「そうだ、電子レンジを極めよう」


 ここに並ぶのは錚々たるメンバー。

 カレーライス・親子丼・にんじんしりしりシーチキン・豚キムチ・豚丼。ぱっと聞けば手の混んだ料理のようですが、これらすべて電子レンジのみで調理されたものども。フライパンも鍋も一切握らず、使ったのは包丁と耐熱ボウルだけ。

 調理時間は数十分。しかしそれでいて味は一級品。お個の自炊としてはまったくもって問題ない。僕はまさに初めての一人暮らしの自炊の答えを垣間見た気がしました。


 さて、そんなこんなで幕を開けた僕の自炊人生。最初からこんなに手を抜いていたらどうなるんだ、という心配もある一方で、「いつかはチンすらしなくなる」という先人の言葉もあります。

 果たしてこれからどうなってしまうのか。長い長い4年間の食生活、なるべく乱さず生きていきたい。そう思うシルエットくんでした。

 明日は先週上げたSSに関する記事でも書こうかなと思っています。

 おやすみなさいませ。

 

2021/03/20

僕はインスタグラムに向いてない。

  高校の陸上部の同期と中国地方に旅行に行ってました。こんばんは、シルエットです。

 高校卒業以来、浪人やらコロナやらで一度も集合できていなかったのですが、浪人生活も終わり、緊急事態宣言も解除され(福岡)、さらに奇跡的に十数名のスケジュールの調整がついたこともあり、1泊2日の旅行を実行しました。……「実行しました」といっても僕は完全に誘われる側だったのですが(笑)

 山口・広島を駆け巡った弾丸旅行。まさに若気の至りと言いますか、細かい計画はあまりせず、「とりあえず行く」「なんとなくやる」のオンパレード。行き先は決まっているものの道順は決まっていない。突発的に出発するなんてのもザラ。ハプニングも数しれず、でもそれが楽しみを増長するスパイスになる、そんな濃厚で濃密な旅でした。


 話は変わりますが、僕は浪人生活終了を期にインスタグラムをはじめました。いや、正確には「再開」しました。以前やっていたのですが、センター試験が終わったあと、あまりの結果の悪さに同級生全員が敵に見えてアカウントごと完全消去してしまっていたので、その時以来約1年ぶりのインスタ開設でした。

 以前インスタをやっていたときは、ツイッターのノリといいますか、ストーリーにつまんねーことを投稿する、みたいなことをやっていました。しかし今はSNSとしてのツイッターは随分下火な世の中。ツイッター特有のノリをインスタで出したところでサムいだけだろうと思い、なるべく「インスタっぽい」おしゃれな投稿だけを心がけています。

 たとえば、新しいランニングシューズの投稿をするとき、いかにもインスタっぽく靴を並べて、ゴリゴリに加工して、ちょっと洒落ったい文章とハッシュタグをつけて投稿するみたいな。

 そんな感じで、今まさに「インスタ勉強中」というような日々を送っています。

 そして今回の中国旅行のあとも、風景や食べ物の写真を加工してインスタにアップロードしようと考え、帰宅後にスマートフォンのアルバムを開きました。そこで僕は思うのです。「僕はインスタグラムに向いてない」と。

 というのも、濃密だったはずの2日間で、撮った写真は僅か数枚。それも誰かに撮ってもらった集合写真的なアレ。インスタに投稿するような、綺麗な風景や美味しそうな食べ物の写真は一枚たりともありませんでした。

「おいしい食べ物も綺麗な風景もなかったのか?」と問われると、答えはNOです。山口では秋吉台から満点の星空を眺めましたし、広島では工事中だったとはいえ宮島を訪れ、広島風お好み焼きやもみじ饅頭といったご当地の食べ物に舌鼓を打ちました。宮島でやった「食べ歩き」なんてインスタ映えそのものであるにも関わらず、やはり僕のスマホには写真は殆ど残っていないのです。

 なぜか?答えは簡単で、僕は根っからあまり写真を撮らないタイプの人間なのです。単純に写真を撮るのが下手、ということもありますが、それ以上にカメラに夢中になって、今目の前で起こっている現実を見逃してしまうのが惜しいのです。

 今回の旅でもそうです。宮島までの移動のフェリー。みんなはスマートフォンを構えて展望台から望める海や島の風景を収めようとしていましたが、僕はただ黄昏るように外を眺めるだけです。いや、眺めるというよりむしろ焼き付けるといった感じでしょうか。今この記事を書いているとき、船から見た光景はありありと思い出されます。誰かが撮った写真なんかに頼る必要もなく。

 宮島に降り立ってからもそうです。どんなコースで島の中を散策し、どんなお店で食べ物を買ったか。友人の誰がシカと戯れていたか。どんなものを食べて「美味しい!」とともに表情をほころばせたか。

 つまるところ、僕は撮るよりも見ることを優先し、思い返すことよりも思い出すことに価値を見出すようです。結局写真は一枚も手元に残らず、でも記憶のなかには様々な写真以上に動く何かが残っている。

 これはいつかお寺の住職さんから聞いた話です。「我が子を撮ろうとカメラを向ける親御さんは、撮ったものなしでは我が子のことを思い出すことはできない」と。

 全てにおいて、一概にそうであるとは言えないかもしれませんが、でもどこか共感できる部分もある話ですよね。

 フォトジェニックよりもメモリージェニックでありたい、でもメモリージェニックってなんだよ、と心のなかでツッコミながら。

 おやすみなさいませ。

 

2021/03/12

物書きであるということ。

 「文は人なりという。然らば書もまた人なりといってよい。書物は著者の分身に外ならぬ。」

――森銑三「書物(甲篇)」による――

 なるほど確かにそうである、というのが正直な感想ですね。こんばんは、シルエットです。

 二次創作系SSライターとして活動を始めてはや8年が経とうか、という私。最近は「八月のシンデレラナイン(以下ハチナイ)」というジャンルで二次創作をしており、ありがたいことでどの作品も平均して2桁ブックマークを頂けるという状況であります。また、pixivのデイリーランキングに入ったり、各作品のコメント欄やツイッター等でお褒めの言葉を頂いたり、執筆者冥利に尽きることもたくさんあります。

 頂く感想のなかには「その若さでこれほどの作品が書けるのはすごい」と、私の技量を認めてくださる感想もあり、独学ながら積み上げてきたモノを褒められるというのは、どこかむず痒くもやはりその嬉しさを隠すことはできません。

 そのような嬉しさがある反面、やはりそのたびに「ここで満足していてはいけない」と自分を戒めてもいます。というのも、かねてから私には執筆者として根本的に足りないものがあるのです。

 それはずばり、「インプットの少なさ」に他なりません。公開非公開も含めて、現在pixiv上には50の作品が並んでいますが、その内容を突き詰めてみると、どこか似たりよったりというか、焼き増し感があります。それはやはり私のインプット量の少なさが原因でしょう。

 序盤に示した、森銑三氏の「書物(甲篇)」にはこのような記述があります。

「しかしながらいつの時代にも重んずべき著述家は少なくて、重んずるに足らぬ著述家が多い。いたずらに多くの書を著して、何一つ特に挙ぐべきもののない人もある。己を養うことは一向にしないで、ただ出す方にばかり追われている人がある。」
「努力だけは認められても、独創を全く欠いている人もある。質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしている人もある。」

 この一節を読んだとき、痛いところを突かれるような、そんな思いがしました。

 昨年、私はハチナイに登場するキャラクターの誕生日を迎えるごとに、そのキャラクターにまつわるSSを投稿するという活動をしておりました。現在、ハチナイには総勢49人のキャラクターがいて、単純計算で約1週間に1回は誰かしらの誕生日を迎えます。とどのつまり、約1週間に1回は何らかの作品を作り上げなければならないということです。1作書き終えれば、休み間もなく次のキャラクターの誕生日に向けて構想を練らなければならない。まさにそれは「ただ出す方にばかり追われている」状況です。

 ではなぜそのようなことに陥ってしまったのか?

 その答えは「承認欲求」です。

 あくまでこれは私の考えなのですが、二次創作SSというのはファンアートと比べて評価を得る機会が少ないものだと思います。例えば「pixiv」といえば「イラストのサイト」と思いつく人が大半ななかで、「小説も投稿されている」と知っている人は少ないように思われます。(根拠はありません。)また、イラストというのはシンプルかつ短時間で沢山の量を見ることができますが、SSというのは文章である以上それなりの分量があり、わりとどっしりと腰を据えて読まねばならず、短時間で沢山の作品に触れるというのは難しいようにも思われます。

 それが故に、私は「自分の作品を見てほしい」「自分という物書きがいることを知ってほしい」と、キャラクターの誕生日ごとに「#○○生誕祭」とハッシュタグをつけてSSをツイートし、多くのリツイートやお気に入りをいただき、己の承認欲求を満たしていました。「生誕祭」での投稿は、人の目に触れる機会が多いからなのか、なんでもない日にSSを投稿するよりも遥かに多くの「承認」を得ることができました。それは私にとっては快感でしかなく、「自分の作品を見てもらいたい」というよりはむしろ「自分を知ってもらいたい」という歪んだ動機で作品を量産するようになったのです。「質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしてい」たのです。

 なんのインプットもなく、ただただ量産していく作品は、どこか陳腐で納得の行かないものばかり。いつしか浴びせられる評価にも「本当に評価してくれているのか?」と失礼極まりない疑念すら抱き始めました。それでも誕生日が近づけば「書かなくちゃいけない」、「書かないとだめだ」と歪んだ使命感に駆られるように筆を取りました。量ばかりに囚われて、下がる質に目を背けながら。

 でも、自分の執筆への動機が間違いであったことに気づきます。そして異常だったことにも。

 あるとき、本当に素であるキャラクターの誕生日を1日遅く勘違いしてしまっていて、1文字足りとも書いていない状況で誕生日を迎えてしまいました。なんの気なしに迎えたその日の0時。タイムラインに流れる記念イラストの数々を見て、私の動機は跳ね上がります。

「しまった、忘れていた。すぐに書かなければ」と。

 しかし、焦れば焦るほど作品のネタは思い浮かばず、たとえ思い浮かんだとしても私の文章が脳内の展開に追いつかずに書いては消して、1文字も進まず。一旦翌日に持ち越そう、そう思って布団に入っても「遅れてしまった」という罪悪感じみた何かが私を締め付ける。書かなければと思って、でも書くことすらもできず。スランプと言うにはおこがましいけれど、でもスランプとしか評せない状態。そのとき、私はふっ、と我に返りました。

――なんで追われるように作品を書いているのだろう。

 もともと私は、「絵が描けない代わりに文章で二次創作をしよう」と思い、二次創作系物書きとしての人生を歩み始めました。誰に追われるわけでもなく、思いついた尊いネタをカタチにしたい。尊いシチュエーションを独り占めしないで、みんなにも共有したい。その一心でした。

 二次創作である以上、知ってもらいたいのはそこに登場するキャラクターであり、シチュエーション。そこに「承認欲求」なんて微塵も入る隙間はないはずで。

 そんな昔のことを思い出したとき、私はその時まで積み上げてきた執筆活動が、どこからかズレて歪んでいたことに気づき、一度筆を置く決断をしました。もっと自分本位に書こう。もっと質の高いものを作り上げよう。そしてなにより。『自分が好きなシチュエーションを自分が好きなように書こう』と。

 そして「誰かに見せなければならない」という思いを消して、ただ自分が読みたいような作品を書くようにしました。そうしていると不思議と自分の技量のなさを痛感するようになりました。

「頭の中にはこんな展開があるのに、技量が足りないばっかりにキャラが動かないし映えない。ここから先が進まない」

 そう思い悩んで筆が止まる。でも、そうやって筆が止まることで、もっと自分の納得の行く作品が作り上げられる。きっと時間に追われていたあの頃は、半ば無理矢理でも妥協して、強引に間に合わせで作り飛ばしていたに違いなくて。じっくりと時間をかけて、そうすれば量よりも質の高いモノができるのです。

 そしてこれも不思議なことなのですが、時間をかければかけるほど思い通りには行かず、むしろ自分の想定を遥かに超えた展開をも書けるようになるのです。画面の上に綴られるキャラクターが、まるで自我を持ったかのように動き出し、そのキャラクター自らが私を操り展開を作り上げてしまうのです。そしていつもそういう作品に高い評価がつく。その時私は思うのです。二次創作である以上、評価されるべきはやはり作者ではなくキャラクターなのだと。


 …………。

 筆が乗るとわけがわからない文章を書いてしまうのが悪い癖です。つまり何が言いたいのかと言いますと、二次創作としてキャラクターを用いる以上は、その原作を存分に生かせるようにさらなる技量が必要であり、そのために古の文豪などの作品からのインプットが必要だ、ということです。


 そして、これはもしかしたら最初に書くべきだったのかもしれませんが、あくまでもこれは私による私だけに対した話にすぎません。二次創作というのは自由であるべきですし、別に原作者でもなくただの一般凡人に過ぎない私が「ああしろ」「こうしろ」というのはあまりにも場違いですから。むしろ、今現在「ハチナイ」という小さな(?)ジャンルで活動している私は、もっと多くのSS執筆者が現れてほしいと切に願っています。他ジャンルを見渡すと、数多くの創作者さんが様々な作品を日々公開されています。ハチナイも、多くの人に「自分の妄想」をカタチにしていただければ、もっともっとハチナイ創作界隈が盛り上がるだろうと思います。

 いつか、ハチナイのプロデューサーは「一体感」というスローガンを口にしました。創作界隈はいつだって「一体感」。ハチナイを愛し、キャラをすこる皆さんが、その愛をカタチあるものにしようと作品を公開されています。確かにSSという媒体は評価を得にくいかもしれない。でも、ジャンルが小さいからこそ、誰かは絶対に見ています。(かくいう私は、ほぼ毎日pixivで#八月のシンデレラナイン で小説を検索し、できる限りコメントを残すようにしています)

 1人でも多くの人が、ハチナイのSS界隈に足を踏み入れて頂けますように。


 どこかまとまりのない文章ですが、これが私の思いです。

 それでは皆様、おやすみなさいませ。