やり残したことは今年中に消化してしまいたい。
こんばんは、シルエットです。
11月11日より公開されている「すずめの戸締まり」を見てきました!
とりあえず、いろいろとバカデカな感情があるのでそれをとつとつと文章にしていこうと思います。
考察なんて高尚なものではなく、一種の読書感想文みたいなものだとお思いください。
あと、もちろんですがネタバレをこの上なく含むので「まだ見てないよ!」って方は読まないことをおすすめします!
それでは早速、気持ちをまとめていきましょう~!
1.ダイジンという存在
まず第一印象として、ダイジンに対しては「え、なにこいつ、ウザ」と極めて悪印象でした。
だって折角の鈴芽と草太のボーイミーツガール邪魔するし……。
喋り方も凄く幼子っぽくて、子供があんまり好きじゃない私には大変不愉快に思える存在でした。
しかもまぁダイジンがトラブルを起こす起こす。
厳密にはダイジンが後戸にいただけで何かをしたわけではないのでしょうが……、まあ見てる間は気づきにくいよねということで。
しかしストーリーが進むに連れ、ダイジンへの見方も変わってきます。
彼?彼女?が発した「要石の役割はお前(草太)に移った(意訳」の言葉でダイジンへの印象は決定的に変わりました。
「この子、ただ鈴芽に愛してもらいたいだけなんや」と。
ここから私の妄想ですが、ダイジンはもともと人間だったのではないかと考えます。
それもまだ善悪の区別もつかないくらいの幼子。
おそらく親の愛情もまだわからないうちに、人柱としてその姿を要石へと変えられ、厄災を封じ込めるために幾星霜の時を常世で眠り続けたのではないでしょうか。
だからこそ、自らを受け入れてくれた鈴芽を愛した。
そして、生前生贄にすることを賛同したであろう大人を憎み、草太を嫌った。
この物語、ちょっと怖いのはダイジンへの救いは最後までなかったように思えることです。
見逃していただけかもしれませんが、途中鈴芽に拒絶された後、ダイジンは鈴芽から愛の言葉をかけられることはなかった気がします。
それに要石の任を解かれ、せっかく自由の身になったにも関わらず、愛する鈴芽を守るため、ダイジンはまた要石へと戻っていってしまいました。
もちろんこの物語の主役は鈴芽と草太ですので、消えたダイジンにスポットが当たらないのは至極当然の話でもあります。
でも、本当にサラッと流しているのがより残酷さを思わせるような気がしてならないです。
個人的にそういうちょっと考えさせられる感じになってるのすごい好きです。
2.311と閉じ師
この物語は、起こる可能性のあった災害を次々と未然に防いでいくわけですが、起こってしまったものとして描かれているのが3.11です。
閉じ師は後戸が開いて厄災が起こらないようにしている、ということですが、何故3.11を防ぐことはできなかったのでしょうか。
まず可能性として考えられるのは、閉じようとしたものの失敗したということ。
そこには草太の父の存在がイマイチ見えないことが関わります。
草太の育ての親である祖父は存在するものの、どうにも父の姿は見えません。
やもすると、3.11のときに後戸を閉めようとしてその命を落としてしまったのかもしれません。
そして次に考えられるのは、そもそも後戸にたどり着く確率があまり高くないということ。
作中では至るところに様々な震災の爪痕が残っており、常々後戸を閉めることに成功してきたわけではないことを物語っています。
さらに作中出てきた閉じ師は宗像一族のみ。
鈴芽のように毎度毎度開きかけの後戸にたどり着くことのほうが少ないのではないんでしょうか。
特に鈴芽がたどり着けたのは、元要石で神とも呼べるダイジンの存在があったからこそ。
一人間にすぎない閉じ師では、やはり限界があるのでしょう。
個人的にはこちらのほうが有力な説かな、と思っています。
3.鈴芽とサバイバーズギルト
あまり他作品のキャラを出すものでもないのでしょうが、鈴芽の姿に重なったのは衛宮士郎という男でした。
さすがに彼のことを長々解説するのもアレなので、気になる人はググってくださいということで済ませますが、2人に共通する概念は「サバイバーズギルト」です
その言葉を意味をコトバンクから引用します。
『戦争や虐殺、大災害などに遭いながらも生き残った人々が、犠牲者に対してもつ罪悪感。自分の命は他人の犠牲によるものではないか、自分にも助けられる人がいたのではないか、などの自責の念』
2人の言動には「死への恐怖の軽さ」をあまりにも感じすぎます。
鈴芽の話だけに留めますが、いきなり目の前でなんかよくわかんない禍々しいものが出ているにもかかわらず、その身を顧みず立ち向かいますし、何なら堂々と「生き死には運」と言い切ってしまいます。
主人公らしいっちゃ主人公らしいのですが、ちょっと怖いぐらい死ぬことへの恐怖があまりにも希薄です。
とはいえ最終的には自らの気持ちと向き合い、「生きたい」「死ぬのが怖い」と言い切ってくれたので一安心。
こういう結末を迎えるあたりも衛宮っぽいんですよね……。
ということを書いていてふと思い出したのですが、そういえば芹澤くんが草太のことを「自分のことに無頓着すぎる」的に言っていましたよね。
衛宮士郎は常に自分を計算に入れてこない人間でした。
……もしかして草太も震災孤児だったりします?
4.泣いたシーン
一人で見に行ったので人目を気にせず泣けました。
という冗談はさておき、なかなかに感動するお話でいっぱい涙を流させてもらいました。
まず最初に涙腺に来たのがSAで環さんと鈴芽が言い合うシーンでした。
やっぱりお互いの背景とか、若干の遠慮とかをそこにいたるまでにちょいちょい感じてただけに、いざ言葉にされると辛いものがあって泣いてしまいました。
感動の涙よりも先に悲痛の涙が来てしまいましたね。
その後はちゃんと皆が泣くであろうシーンで泣きました。
過去の鈴芽に会うシーンとかね。
「常世はすべての時間が存在する」的な概念がブワッと思い出されたので「あーーーーっ!」ともなりましたけど。
ちゃんと泣けて良かったです。
ほんとおもしろかったす。
5.自分語り
以下自分語り。
さて、実は新海誠氏の作品を見るのはこれが初めてでした。
『君の名は。』も『天気の子』もあいにく見たことがなく、人生初新海誠がこの作品でした。
なんで見てこなかったかというと、もともと僕がハイパー逆張り野郎だからです(笑)
流行りのものには常に中指を立ててきたので、そういった作品は殆ど見てこなかったんですよね。
……流石に冗談です。
今までもこの手の流行りの作品を「みたいみたい」という気持ちはあっても、なんだかんだ足が向かず公開終了みたいなことがほとんどでした。
じゃあなんで今回は見に行ったのよ、という話。
完全にこれはインターネットの影響が大きいです。
ツイッターで仲良くさせてもらっている方々が、たびたびこの作品関連のことをつぶやいており、単純に目につく機会が多くありました。
それに作品を見てなかなかにバカデカ感情を抱えてらっしゃったみたいで、それもより見てみたい欲をかきたてられました。
そして結局今日に至ると。
誰かの背中を押そう、なんて意図はまったくなかったと思いますが、あなたがたの何気ない感想ツイートはたしかに私の背中を押し、この体を劇場へと向かわせてくれました。
感謝の気持でいっぱいです。
さんくす。
んで、新海誠氏の作品が初めてということもそうですが、まず何より劇場に行ったのがめっちゃめちゃ久々でした。
たぶん記憶が正しければ、前回劇場で見た映画は『スパイダーマンホームカミング』です。
友人に連れられて見に行ったのを覚えています。
調べたら2017年の作品ですって。
つまり5年ぶりに劇場に足を運んだわけです。
もっと映画を見ようと思いました。マジで。
6.まとめ
と言った感じでバカデカ感情をとりあえず文字にしてみました。
まあいろいろ書き漏らしとかはあるのでしょうが、現時点ではこれで大丈夫だと思います。
やっぱり映画はおもしろいですね。
機会があればもっともっといろんな作品を見てみたいと思いました。
あともし次行くならドリンクは氷抜きにしてもらおうとも思いました。
それでは、やり残したことを今年中に終えられるように残りの半月を邁進してまいりましょう。
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