2024/09/19

SS執筆に文才は必要なのか?

私の考えは「必要」。


こんばんは、シルエットです。

こういう評論文的なブログを書くのはいつぶりでしょうか。2年ぶりくらい?

でも実はこのブログの開設意図としては、思ったこと考えたことを書き連ねるための場を設けることだったんですよ🤗

『二次創作執筆系私文大学生が140字では伝えきれないことを雑多に書くブログ』って説明欄にも書いてありますので。


そんな前置きはさておき。

今日は久しぶりに執筆者としての意見文。

「SS執筆に文才は必要なのか?」という命題への私なりの考えをここに記しておこうと思います。

一応一番最初に結論は示しますが、いろいろ話は発展していくので最後まで読んでくれると幸いです。




『SS執筆に文才は必要なのか?』

1.結論

「SS執筆に文才は必要である」というのが私の考えです。

ここから様々理由であったり事例であったりを明かすのですが、その前に言葉の定義からさせてください。

「文才」という言葉は、それぞれ漠然としたイメージはあると思いますが、ここでは「人が読むのに苦労しない文章を書くことが出来る力」というように定義させていただきます。

ですので、SS執筆に必要とされる文才もこれであり、以後登場する文才もこの意味であるということを共通認識とさせてください。


その上で理由を述べていくわけですが、これは大きく分けて2つ存在します。


2.理由①

「文才がないと、納得のいく文章が書けない可能性が極めて高くなるため」

SSの執筆というのは「文章を用いて自分の頭の中にある光景を他者に伝えるものである」という風に私自身考えています。

執筆時にはここでの「他者」が「自分」になるわけですね。書きながら読み返していくため。

文才がないと、自分で読み返した際に、その文章だけでは光景が伝わりきらず、脳内風景の完全再現とはいかない。

納得のいく文章にはなる確率が著しく低下するのです。


これは私自身も、物書きとして幾度となく経験したことです。

なにかエモいシチュエーション。なにかキュートなシチュエーション。頭の中に思い浮かんだ光景をカタチにするため、私は日々筆を執っています。

しかしながら、そのすべてがモノになってきたわけではありません。

なぜなら、自分の技量が足りずに見えているはずの光景が言葉に落とし込めないから。

最高のシチュエーションが頭の中にはあるのに、最適な表現が見つからない為にカタチにならない。

例え無理くり体裁を整えてみたとしても、その光景を思い浮かべるには私自身でさえも脳内補完が必須になってしまいます。

私の頭の中にしかない設定を理解していることが前提条件の文章。

自分を一人の読者という視点に変えたとき、作者と光景を共有するのには極めて沢山の苦労をしなければならない文章。

到底自分にとって納得のいく文章ではありません。

これではSSにならない。

そうやって完成しない小説は数知れず。

私自身このような経験をしてきたが故に「文才がないと納得のいく文章が書けない」と思ってしまうのです。


2.理由②

「文才がないと、他者から反応を得ることが難しくなりかねないため」

私は以前「承認欲求のために二次創作をするのは苦しいだけ」みたいなことを書いたことがあり、その考え方自体は大きく変わっていません。

二次創作をする一番の要因が「承認欲求を満たすためでない」ことは、今もそうです。

しかしながら、創作活動をするにあたり「何かしらの反応を得られること」は必要不可欠な要素であると考えているのです。


アイプラやハチナイを主として二次創作活動を行っている私ですが、そのハジマリは東方Projectでの執筆活動でした。

御三家の一角とも称される超ドデカコンテンツですから、二次創作SSというのも実に溢れかえっており、駆け出しのぺーぺーが書いた作品が読まれることは殆どありませんでした。

それはつまり、目に見える形で反応を貰えることもないということ。

執筆に対する熱は長く続かず、幾度となく途中で筆を折り続けてきました。

その後数年の空白期間を経て、先に上げたハチナイ―八月のシンデレラナインという、東方と比べれば明らかにマイナーなコンテンツで執筆活動を再開しました。

当時はサービス開始からまだ2年足らずで、ユーザー数も数えるほどだった頃ですから、二次創作SSに飢えている人もそれなりにいたのでしょう。

何かしら書けば必ず何らかの反応が貰えていました。

ブックマークが貰えたり、コメントが貰えたり。

「誰かが自分の作品を読んでくれている」

その実感は、執筆活動への炎を燃やし続ける確かな燃料となりました。

読んでくれる人がいるからもっともっと書きたいと思うようになり、次第にいつしか書くことそのもののが習慣になった気がして。

現在でも執筆活動を続けられているのは、間違いなくこのときの「読まれる経験」が大きかったのだと感じています。


さて、これは「執筆活動と反応」の話でしたが、「文才と反応」ではどうなのか。

理由として挙げていますが「文才がないと反応も得られないかもしれない」と言わざるを得ません。

私は物書きであるわけですが、もちろん一人の読者でもあります。

アイプラやハチナイにとどまらず、ハマったコンテンツではとにかく二次創作SSを読み漁り、気に入った作品には軽率にブクマしますし、時にコメントも残します。

しかしながら、やはり苦手な文章や受け入れられない表現は存在します。どうしても読み続けることができず、ブクマもコメントもできなかった作品というのは存在してしまいます。

あまりに情景描写の欠けた地の文。抑揚がなく一本調子な言葉の羅列。言い換え表現が最早皆無に等しく、数行の間に何度のその単語を目にしただろうという文章。

こういうことを書くと「お前はそんなことが言えるほど文章が上手いんか?」と突かれそうではあるが、自分の技量がどうとかいう話がしたいのではありません。

単なる一人の読者として、どうしても受け入れられないというだけの話です。

絵も描けない私がアニメを見ながら「作画崩壊www」って思っているようなものなので、あんまり気にしないでください。

さて、そういう言ったモノは私の「文才」という言葉の定義に乗っ取ると「文才がない」という風になってしまうことでしょう。

読むのに苦労してしまっているのですから。

「この人の文章はあんまり得意じゃないな」と一度でも感じてしまうと、以降なかなか食指は伸びないものです。

そして「この感覚は別に私だけの特殊なものである」というわけでもないと思います。

恐らく読者であれば一度は感じたことがあることでしょう。

この二つのことが「文才がないと反応が得られない」と考えるに至った経験です。



こうして「SS執筆に文才は必要である」ということを書き連ねてきました。

けれどこの記事はここで終わりません。

こんな疑問が思い浮かんだのではないでしょうか?



『文才がないならSS執筆を諦めるしかないのか?』

3.答え

「否」

文才が仮になかったとしても、SS執筆を諦めることは一切ないと私は考えています。

あれだけ「執筆に文才は必要だ!」とか言っていたのに?

ここからはその理由を語ることといたしましょう。


4.理由①

「文才は経験を積むことで磨かれるから」

先日、私は数年前の自分の小説を読み返してみました。具体的には5年前の文章を読み直して見ました。

あまりに情景描写の欠けた地の文。抑揚がなく一本調子な言葉の羅列。言い換え表現が最早皆無に等しく、数行の間に何度のその単語を目にしただろうという文章。

苦痛でした。読むのが苦しかった。

そこにある私の文章は、いわゆる「嫌いな文章」でした。

「文才」がありませんでした。

しかしながら、直近……ここ1,2年で書いた作品は少なくとも「好きな文章」です。

「文才」がありました。

文才がなかった私に、突然文才が降ってきたわけではありません。

本数にしてはそれほど多くないかもしれません。

けれど長い目で見ればへこたれることなく、なんだかんだ書き続けた成果が文章として現れているということです。

文才は、経験を積むことで磨かれていくのです。


5.理由②

「文才は他者評価であるから」

先の5年前の作品を読みなおした経験が、これまたこの理由の良い実例となります。

23歳になったシルエットくんは、当時17歳だったシルエットくんの文章を「文才がない」と評価しました。

しかし17歳だったシルエットくんは、書き終えた瞬間「良いものが出来た」と感じていたはずです。

「納得の行くものが書けた」と思っていたはずです。

その時確かに「文才はあった」のです。

そしてそれは評価は当時の私だけのものではないはずです。

その作品はpixivに公開されており(現在非公開)、19のブックマークと1500にも及ぶ閲覧数を得ていました。

名前も知らない数多くの誰かが「読むことができていた」です。

少なくともたぶん19人は「読むことに苦労しなかった」のです。

「文才」は他者評価、なんですよね。


6.まとめ

「SS執筆に文才は必要である」と私は考えます。

それは文才がなければ、納得のいく文章を書くのが難しくなるし、他人からの反応も得られにくくなるから。

しかし「文才というものは他者評価である」とも考えています。「文才」は誰かに読まれない限り、あるともないとも言えません。

そして自分の書いた文章の1人目の読者というのはいつだって自分なのです。

書いてみて、書き終えた時に「良いじゃん」となったのなら、少なくとも1人目の読者は読むのに苦労しなかった。

1人目の読者からは「文才がある」と思われた、ということです。

もしどんなに試行錯誤を重ねても、それでも納得のいくものにならないのであれば、残念ながら「文才がない」のかもしれません。

あくまで「そのとき」は。

文才は磨くことが出来ます。それは書き続けるしかないのかもしれませんが。


ここまで「SS」という言葉の定義をして来ませんでしたが、その理由はこのインターネット上に於いて、「SS」という言葉が指すものがあまりに膨大であるからに他なりません。

3000文字の小説もSS。500文字の小説もSS。446ページの文庫本もSS。

地の文がある小説もSS。大半がセリフで地の文はスパイス程度の小説もSS。全部セリフだけで構成されている小説もSS。

地の文多用型のSSでは文才がなかったとしても、セリフ型のSSでは文才があるかもしれない。


SS執筆に文才は必要です。

貴方なりの「文才」を見つけるためにも、もしその意思があるならば、臆することなく筆を執ってみてはいかがでしょうか。

一人の物書きがふと洗い物しながら考えた、しがない戯言でした。



ところで私はセリフ型のSSでは文才がないと第一読者に言われていますよ🤗

0 件のコメント:

コメントを投稿