2021/03/20

僕はインスタグラムに向いてない。

  高校の陸上部の同期と中国地方に旅行に行ってました。こんばんは、シルエットです。

 高校卒業以来、浪人やらコロナやらで一度も集合できていなかったのですが、浪人生活も終わり、緊急事態宣言も解除され(福岡)、さらに奇跡的に十数名のスケジュールの調整がついたこともあり、1泊2日の旅行を実行しました。……「実行しました」といっても僕は完全に誘われる側だったのですが(笑)

 山口・広島を駆け巡った弾丸旅行。まさに若気の至りと言いますか、細かい計画はあまりせず、「とりあえず行く」「なんとなくやる」のオンパレード。行き先は決まっているものの道順は決まっていない。突発的に出発するなんてのもザラ。ハプニングも数しれず、でもそれが楽しみを増長するスパイスになる、そんな濃厚で濃密な旅でした。


 話は変わりますが、僕は浪人生活終了を期にインスタグラムをはじめました。いや、正確には「再開」しました。以前やっていたのですが、センター試験が終わったあと、あまりの結果の悪さに同級生全員が敵に見えてアカウントごと完全消去してしまっていたので、その時以来約1年ぶりのインスタ開設でした。

 以前インスタをやっていたときは、ツイッターのノリといいますか、ストーリーにつまんねーことを投稿する、みたいなことをやっていました。しかし今はSNSとしてのツイッターは随分下火な世の中。ツイッター特有のノリをインスタで出したところでサムいだけだろうと思い、なるべく「インスタっぽい」おしゃれな投稿だけを心がけています。

 たとえば、新しいランニングシューズの投稿をするとき、いかにもインスタっぽく靴を並べて、ゴリゴリに加工して、ちょっと洒落ったい文章とハッシュタグをつけて投稿するみたいな。

 そんな感じで、今まさに「インスタ勉強中」というような日々を送っています。

 そして今回の中国旅行のあとも、風景や食べ物の写真を加工してインスタにアップロードしようと考え、帰宅後にスマートフォンのアルバムを開きました。そこで僕は思うのです。「僕はインスタグラムに向いてない」と。

 というのも、濃密だったはずの2日間で、撮った写真は僅か数枚。それも誰かに撮ってもらった集合写真的なアレ。インスタに投稿するような、綺麗な風景や美味しそうな食べ物の写真は一枚たりともありませんでした。

「おいしい食べ物も綺麗な風景もなかったのか?」と問われると、答えはNOです。山口では秋吉台から満点の星空を眺めましたし、広島では工事中だったとはいえ宮島を訪れ、広島風お好み焼きやもみじ饅頭といったご当地の食べ物に舌鼓を打ちました。宮島でやった「食べ歩き」なんてインスタ映えそのものであるにも関わらず、やはり僕のスマホには写真は殆ど残っていないのです。

 なぜか?答えは簡単で、僕は根っからあまり写真を撮らないタイプの人間なのです。単純に写真を撮るのが下手、ということもありますが、それ以上にカメラに夢中になって、今目の前で起こっている現実を見逃してしまうのが惜しいのです。

 今回の旅でもそうです。宮島までの移動のフェリー。みんなはスマートフォンを構えて展望台から望める海や島の風景を収めようとしていましたが、僕はただ黄昏るように外を眺めるだけです。いや、眺めるというよりむしろ焼き付けるといった感じでしょうか。今この記事を書いているとき、船から見た光景はありありと思い出されます。誰かが撮った写真なんかに頼る必要もなく。

 宮島に降り立ってからもそうです。どんなコースで島の中を散策し、どんなお店で食べ物を買ったか。友人の誰がシカと戯れていたか。どんなものを食べて「美味しい!」とともに表情をほころばせたか。

 つまるところ、僕は撮るよりも見ることを優先し、思い返すことよりも思い出すことに価値を見出すようです。結局写真は一枚も手元に残らず、でも記憶のなかには様々な写真以上に動く何かが残っている。

 これはいつかお寺の住職さんから聞いた話です。「我が子を撮ろうとカメラを向ける親御さんは、撮ったものなしでは我が子のことを思い出すことはできない」と。

 全てにおいて、一概にそうであるとは言えないかもしれませんが、でもどこか共感できる部分もある話ですよね。

 フォトジェニックよりもメモリージェニックでありたい、でもメモリージェニックってなんだよ、と心のなかでツッコミながら。

 おやすみなさいませ。

 

2021/03/12

物書きであるということ。

 「文は人なりという。然らば書もまた人なりといってよい。書物は著者の分身に外ならぬ。」

――森銑三「書物(甲篇)」による――

 なるほど確かにそうである、というのが正直な感想ですね。こんばんは、シルエットです。

 二次創作系SSライターとして活動を始めてはや8年が経とうか、という私。最近は「八月のシンデレラナイン(以下ハチナイ)」というジャンルで二次創作をしており、ありがたいことでどの作品も平均して2桁ブックマークを頂けるという状況であります。また、pixivのデイリーランキングに入ったり、各作品のコメント欄やツイッター等でお褒めの言葉を頂いたり、執筆者冥利に尽きることもたくさんあります。

 頂く感想のなかには「その若さでこれほどの作品が書けるのはすごい」と、私の技量を認めてくださる感想もあり、独学ながら積み上げてきたモノを褒められるというのは、どこかむず痒くもやはりその嬉しさを隠すことはできません。

 そのような嬉しさがある反面、やはりそのたびに「ここで満足していてはいけない」と自分を戒めてもいます。というのも、かねてから私には執筆者として根本的に足りないものがあるのです。

 それはずばり、「インプットの少なさ」に他なりません。公開非公開も含めて、現在pixiv上には50の作品が並んでいますが、その内容を突き詰めてみると、どこか似たりよったりというか、焼き増し感があります。それはやはり私のインプット量の少なさが原因でしょう。

 序盤に示した、森銑三氏の「書物(甲篇)」にはこのような記述があります。

「しかしながらいつの時代にも重んずべき著述家は少なくて、重んずるに足らぬ著述家が多い。いたずらに多くの書を著して、何一つ特に挙ぐべきもののない人もある。己を養うことは一向にしないで、ただ出す方にばかり追われている人がある。」
「努力だけは認められても、独創を全く欠いている人もある。質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしている人もある。」

 この一節を読んだとき、痛いところを突かれるような、そんな思いがしました。

 昨年、私はハチナイに登場するキャラクターの誕生日を迎えるごとに、そのキャラクターにまつわるSSを投稿するという活動をしておりました。現在、ハチナイには総勢49人のキャラクターがいて、単純計算で約1週間に1回は誰かしらの誕生日を迎えます。とどのつまり、約1週間に1回は何らかの作品を作り上げなければならないということです。1作書き終えれば、休み間もなく次のキャラクターの誕生日に向けて構想を練らなければならない。まさにそれは「ただ出す方にばかり追われている」状況です。

 ではなぜそのようなことに陥ってしまったのか?

 その答えは「承認欲求」です。

 あくまでこれは私の考えなのですが、二次創作SSというのはファンアートと比べて評価を得る機会が少ないものだと思います。例えば「pixiv」といえば「イラストのサイト」と思いつく人が大半ななかで、「小説も投稿されている」と知っている人は少ないように思われます。(根拠はありません。)また、イラストというのはシンプルかつ短時間で沢山の量を見ることができますが、SSというのは文章である以上それなりの分量があり、わりとどっしりと腰を据えて読まねばならず、短時間で沢山の作品に触れるというのは難しいようにも思われます。

 それが故に、私は「自分の作品を見てほしい」「自分という物書きがいることを知ってほしい」と、キャラクターの誕生日ごとに「#○○生誕祭」とハッシュタグをつけてSSをツイートし、多くのリツイートやお気に入りをいただき、己の承認欲求を満たしていました。「生誕祭」での投稿は、人の目に触れる機会が多いからなのか、なんでもない日にSSを投稿するよりも遥かに多くの「承認」を得ることができました。それは私にとっては快感でしかなく、「自分の作品を見てもらいたい」というよりはむしろ「自分を知ってもらいたい」という歪んだ動機で作品を量産するようになったのです。「質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしてい」たのです。

 なんのインプットもなく、ただただ量産していく作品は、どこか陳腐で納得の行かないものばかり。いつしか浴びせられる評価にも「本当に評価してくれているのか?」と失礼極まりない疑念すら抱き始めました。それでも誕生日が近づけば「書かなくちゃいけない」、「書かないとだめだ」と歪んだ使命感に駆られるように筆を取りました。量ばかりに囚われて、下がる質に目を背けながら。

 でも、自分の執筆への動機が間違いであったことに気づきます。そして異常だったことにも。

 あるとき、本当に素であるキャラクターの誕生日を1日遅く勘違いしてしまっていて、1文字足りとも書いていない状況で誕生日を迎えてしまいました。なんの気なしに迎えたその日の0時。タイムラインに流れる記念イラストの数々を見て、私の動機は跳ね上がります。

「しまった、忘れていた。すぐに書かなければ」と。

 しかし、焦れば焦るほど作品のネタは思い浮かばず、たとえ思い浮かんだとしても私の文章が脳内の展開に追いつかずに書いては消して、1文字も進まず。一旦翌日に持ち越そう、そう思って布団に入っても「遅れてしまった」という罪悪感じみた何かが私を締め付ける。書かなければと思って、でも書くことすらもできず。スランプと言うにはおこがましいけれど、でもスランプとしか評せない状態。そのとき、私はふっ、と我に返りました。

――なんで追われるように作品を書いているのだろう。

 もともと私は、「絵が描けない代わりに文章で二次創作をしよう」と思い、二次創作系物書きとしての人生を歩み始めました。誰に追われるわけでもなく、思いついた尊いネタをカタチにしたい。尊いシチュエーションを独り占めしないで、みんなにも共有したい。その一心でした。

 二次創作である以上、知ってもらいたいのはそこに登場するキャラクターであり、シチュエーション。そこに「承認欲求」なんて微塵も入る隙間はないはずで。

 そんな昔のことを思い出したとき、私はその時まで積み上げてきた執筆活動が、どこからかズレて歪んでいたことに気づき、一度筆を置く決断をしました。もっと自分本位に書こう。もっと質の高いものを作り上げよう。そしてなにより。『自分が好きなシチュエーションを自分が好きなように書こう』と。

 そして「誰かに見せなければならない」という思いを消して、ただ自分が読みたいような作品を書くようにしました。そうしていると不思議と自分の技量のなさを痛感するようになりました。

「頭の中にはこんな展開があるのに、技量が足りないばっかりにキャラが動かないし映えない。ここから先が進まない」

 そう思い悩んで筆が止まる。でも、そうやって筆が止まることで、もっと自分の納得の行く作品が作り上げられる。きっと時間に追われていたあの頃は、半ば無理矢理でも妥協して、強引に間に合わせで作り飛ばしていたに違いなくて。じっくりと時間をかけて、そうすれば量よりも質の高いモノができるのです。

 そしてこれも不思議なことなのですが、時間をかければかけるほど思い通りには行かず、むしろ自分の想定を遥かに超えた展開をも書けるようになるのです。画面の上に綴られるキャラクターが、まるで自我を持ったかのように動き出し、そのキャラクター自らが私を操り展開を作り上げてしまうのです。そしていつもそういう作品に高い評価がつく。その時私は思うのです。二次創作である以上、評価されるべきはやはり作者ではなくキャラクターなのだと。


 …………。

 筆が乗るとわけがわからない文章を書いてしまうのが悪い癖です。つまり何が言いたいのかと言いますと、二次創作としてキャラクターを用いる以上は、その原作を存分に生かせるようにさらなる技量が必要であり、そのために古の文豪などの作品からのインプットが必要だ、ということです。


 そして、これはもしかしたら最初に書くべきだったのかもしれませんが、あくまでもこれは私による私だけに対した話にすぎません。二次創作というのは自由であるべきですし、別に原作者でもなくただの一般凡人に過ぎない私が「ああしろ」「こうしろ」というのはあまりにも場違いですから。むしろ、今現在「ハチナイ」という小さな(?)ジャンルで活動している私は、もっと多くのSS執筆者が現れてほしいと切に願っています。他ジャンルを見渡すと、数多くの創作者さんが様々な作品を日々公開されています。ハチナイも、多くの人に「自分の妄想」をカタチにしていただければ、もっともっとハチナイ創作界隈が盛り上がるだろうと思います。

 いつか、ハチナイのプロデューサーは「一体感」というスローガンを口にしました。創作界隈はいつだって「一体感」。ハチナイを愛し、キャラをすこる皆さんが、その愛をカタチあるものにしようと作品を公開されています。確かにSSという媒体は評価を得にくいかもしれない。でも、ジャンルが小さいからこそ、誰かは絶対に見ています。(かくいう私は、ほぼ毎日pixivで#八月のシンデレラナイン で小説を検索し、できる限りコメントを残すようにしています)

 1人でも多くの人が、ハチナイのSS界隈に足を踏み入れて頂けますように。


 どこかまとまりのない文章ですが、これが私の思いです。

 それでは皆様、おやすみなさいませ。

2021/03/10

なんだかんだ受験は終わる。

 私立文系大学への入学が決まりました。こんばんは、シルエットです。

 国公立大学の前期試験の合否が出揃っている中、僕も例外ではなく受験した大学の合否が出ました。残念ながら、今年もインターネット発表のサイトに僕の受験番号はなく、国公立大学は不合格という結果になりました。

 浪人して、しかしながら去年落ちた大学に再び落ちる。傍から見れば「浪人失敗」という烙印を押されても仕方ないのかもしれません。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。

 僕個人としては、まあ終わりよければすべてよしと言いますか、喉元過ぎれば熱さを忘れると言いますか。なんにせよ、進学先を手に入れた状態で今日を迎えられた時点で浪人は精巧なのではないかと思っています。「甘え」だとか「自己正当化」だとか言われるかもしれないし、そんな批判も甘んじて受け入れるほかはないとは思います。

 でも考えてみてほしい。昨年の今(厳密には後期の発表後)、全落ちして最早行く先を失っていた頃を。それを考えると、たとえ私立大学であっても、進学先があることがどれほどに幸福なことか。


 なんてね。

 なんだかんだ言っても所詮言い訳にしか過ぎず、正当化にしか過ぎんでしょう。だからといって終わった試験を悔やんだって仕方がありません。兎にも角にも、4月から始まる新生活に向けて準備をする他ないわけです。


 ところで。

 僕の友人が2人ほど赤門で有名なあの超ハイスペック大学を受験しているので、その受験結果を楽しみに待つだけです。本当に彼らには受かっていてほしい。


 そういえば。前回の更新で「ランニング記事を書きたい(要約)」みたいなことを書きましたが、まずはその第一歩として新しいランニングシューズを購入したいですね。高校陸上部の引退前に過走行故に買い替えたロードホークFF2が、まだまだ距離的には大丈夫なのですが、いかんせん2年近く走っていない僕にはランナーへの要求スペックが高すぎて走れなくなってしまったので、もっとファンランナー向けのシューズを買いたいわけです。(あともっと普段遣いできるような地味なデザインの靴がほしい)

 どこかしらの時間でスポーツ用品店に行ってシューズを探したいと思います。

 あと、一応2月末からだらだら書いてる浪人生活期も書き終えられればなあ、と思いつつ。(公開予定日未定)

 東京では寒暖差の激しい日々が続いているようですが、お体にお気をつけて。

 おやすみなさい!