「文は人なりという。然らば書もまた人なりといってよい。書物は著者の分身に外ならぬ。」
――森銑三「書物(甲篇)」による――
なるほど確かにそうである、というのが正直な感想ですね。こんばんは、シルエットです。
二次創作系SSライターとして活動を始めてはや8年が経とうか、という私。最近は「八月のシンデレラナイン(以下ハチナイ)」というジャンルで二次創作をしており、ありがたいことでどの作品も平均して2桁ブックマークを頂けるという状況であります。また、pixivのデイリーランキングに入ったり、各作品のコメント欄やツイッター等でお褒めの言葉を頂いたり、執筆者冥利に尽きることもたくさんあります。
頂く感想のなかには「その若さでこれほどの作品が書けるのはすごい」と、私の技量を認めてくださる感想もあり、独学ながら積み上げてきたモノを褒められるというのは、どこかむず痒くもやはりその嬉しさを隠すことはできません。
そのような嬉しさがある反面、やはりそのたびに「ここで満足していてはいけない」と自分を戒めてもいます。というのも、かねてから私には執筆者として根本的に足りないものがあるのです。
それはずばり、「インプットの少なさ」に他なりません。公開非公開も含めて、現在pixiv上には50の作品が並んでいますが、その内容を突き詰めてみると、どこか似たりよったりというか、焼き増し感があります。それはやはり私のインプット量の少なさが原因でしょう。
序盤に示した、森銑三氏の「書物(甲篇)」にはこのような記述があります。
「しかしながらいつの時代にも重んずべき著述家は少なくて、重んずるに足らぬ著述家が多い。いたずらに多くの書を著して、何一つ特に挙ぐべきもののない人もある。己を養うことは一向にしないで、ただ出す方にばかり追われている人がある。」
「努力だけは認められても、独創を全く欠いている人もある。質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしている人もある。」
この一節を読んだとき、痛いところを突かれるような、そんな思いがしました。
昨年、私はハチナイに登場するキャラクターの誕生日を迎えるごとに、そのキャラクターにまつわるSSを投稿するという活動をしておりました。現在、ハチナイには総勢49人のキャラクターがいて、単純計算で約1週間に1回は誰かしらの誕生日を迎えます。とどのつまり、約1週間に1回は何らかの作品を作り上げなければならないということです。1作書き終えれば、休み間もなく次のキャラクターの誕生日に向けて構想を練らなければならない。まさにそれは「ただ出す方にばかり追われている」状況です。
ではなぜそのようなことに陥ってしまったのか?
その答えは「承認欲求」です。
あくまでこれは私の考えなのですが、二次創作SSというのはファンアートと比べて評価を得る機会が少ないものだと思います。例えば「pixiv」といえば「イラストのサイト」と思いつく人が大半ななかで、「小説も投稿されている」と知っている人は少ないように思われます。(根拠はありません。)また、イラストというのはシンプルかつ短時間で沢山の量を見ることができますが、SSというのは文章である以上それなりの分量があり、わりとどっしりと腰を据えて読まねばならず、短時間で沢山の作品に触れるというのは難しいようにも思われます。
それが故に、私は「自分の作品を見てほしい」「自分という物書きがいることを知ってほしい」と、キャラクターの誕生日ごとに「#○○生誕祭」とハッシュタグをつけてSSをツイートし、多くのリツイートやお気に入りをいただき、己の承認欲求を満たしていました。「生誕祭」での投稿は、人の目に触れる機会が多いからなのか、なんでもない日にSSを投稿するよりも遥かに多くの「承認」を得ることができました。それは私にとっては快感でしかなく、「自分の作品を見てもらいたい」というよりはむしろ「自分を知ってもらいたい」という歪んだ動機で作品を量産するようになったのです。「質よりも量のある書物を拵えることによって、自己の存在を認められようとしてい」たのです。
なんのインプットもなく、ただただ量産していく作品は、どこか陳腐で納得の行かないものばかり。いつしか浴びせられる評価にも「本当に評価してくれているのか?」と失礼極まりない疑念すら抱き始めました。それでも誕生日が近づけば「書かなくちゃいけない」、「書かないとだめだ」と歪んだ使命感に駆られるように筆を取りました。量ばかりに囚われて、下がる質に目を背けながら。
でも、自分の執筆への動機が間違いであったことに気づきます。そして異常だったことにも。
あるとき、本当に素であるキャラクターの誕生日を1日遅く勘違いしてしまっていて、1文字足りとも書いていない状況で誕生日を迎えてしまいました。なんの気なしに迎えたその日の0時。タイムラインに流れる記念イラストの数々を見て、私の動機は跳ね上がります。
「しまった、忘れていた。すぐに書かなければ」と。
しかし、焦れば焦るほど作品のネタは思い浮かばず、たとえ思い浮かんだとしても私の文章が脳内の展開に追いつかずに書いては消して、1文字も進まず。一旦翌日に持ち越そう、そう思って布団に入っても「遅れてしまった」という罪悪感じみた何かが私を締め付ける。書かなければと思って、でも書くことすらもできず。スランプと言うにはおこがましいけれど、でもスランプとしか評せない状態。そのとき、私はふっ、と我に返りました。
――なんで追われるように作品を書いているのだろう。
もともと私は、「絵が描けない代わりに文章で二次創作をしよう」と思い、二次創作系物書きとしての人生を歩み始めました。誰に追われるわけでもなく、思いついた尊いネタをカタチにしたい。尊いシチュエーションを独り占めしないで、みんなにも共有したい。その一心でした。
二次創作である以上、知ってもらいたいのはそこに登場するキャラクターであり、シチュエーション。そこに「承認欲求」なんて微塵も入る隙間はないはずで。
そんな昔のことを思い出したとき、私はその時まで積み上げてきた執筆活動が、どこからかズレて歪んでいたことに気づき、一度筆を置く決断をしました。もっと自分本位に書こう。もっと質の高いものを作り上げよう。そしてなにより。『自分が好きなシチュエーションを自分が好きなように書こう』と。
そして「誰かに見せなければならない」という思いを消して、ただ自分が読みたいような作品を書くようにしました。そうしていると不思議と自分の技量のなさを痛感するようになりました。
「頭の中にはこんな展開があるのに、技量が足りないばっかりにキャラが動かないし映えない。ここから先が進まない」
そう思い悩んで筆が止まる。でも、そうやって筆が止まることで、もっと自分の納得の行く作品が作り上げられる。きっと時間に追われていたあの頃は、半ば無理矢理でも妥協して、強引に間に合わせで作り飛ばしていたに違いなくて。じっくりと時間をかけて、そうすれば量よりも質の高いモノができるのです。
そしてこれも不思議なことなのですが、時間をかければかけるほど思い通りには行かず、むしろ自分の想定を遥かに超えた展開をも書けるようになるのです。画面の上に綴られるキャラクターが、まるで自我を持ったかのように動き出し、そのキャラクター自らが私を操り展開を作り上げてしまうのです。そしていつもそういう作品に高い評価がつく。その時私は思うのです。二次創作である以上、評価されるべきはやはり作者ではなくキャラクターなのだと。
…………。
筆が乗るとわけがわからない文章を書いてしまうのが悪い癖です。つまり何が言いたいのかと言いますと、二次創作としてキャラクターを用いる以上は、その原作を存分に生かせるようにさらなる技量が必要であり、そのために古の文豪などの作品からのインプットが必要だ、ということです。
そして、これはもしかしたら最初に書くべきだったのかもしれませんが、あくまでもこれは私による私だけに対した話にすぎません。二次創作というのは自由であるべきですし、別に原作者でもなくただの一般凡人に過ぎない私が「ああしろ」「こうしろ」というのはあまりにも場違いですから。むしろ、今現在「ハチナイ」という小さな(?)ジャンルで活動している私は、もっと多くのSS執筆者が現れてほしいと切に願っています。他ジャンルを見渡すと、数多くの創作者さんが様々な作品を日々公開されています。ハチナイも、多くの人に「自分の妄想」をカタチにしていただければ、もっともっとハチナイ創作界隈が盛り上がるだろうと思います。
いつか、ハチナイのプロデューサーは「一体感」というスローガンを口にしました。創作界隈はいつだって「一体感」。ハチナイを愛し、キャラをすこる皆さんが、その愛をカタチあるものにしようと作品を公開されています。確かにSSという媒体は評価を得にくいかもしれない。でも、ジャンルが小さいからこそ、誰かは絶対に見ています。(かくいう私は、ほぼ毎日pixivで#八月のシンデレラナイン で小説を検索し、できる限りコメントを残すようにしています)
1人でも多くの人が、ハチナイのSS界隈に足を踏み入れて頂けますように。
どこかまとまりのない文章ですが、これが私の思いです。
それでは皆様、おやすみなさいませ。