2021/04/14

名前を借りるということ

 別に名義貸しとかなりすましとか、そういう話じゃないよ。

 こんばんは、シルエットです。

 本日は僕の執筆に関する意見かつハチナイ記事なので、覚悟して臨んでください(?)


 ハチナイの二次創作をするにあたって、一番悩ましいのは「監督」という存在です。

 公式では、(半ば形骸化していますが)「監督=あなた」という位置づけがなされています。しかしながら約4年にも渡るハチナイの中で、「監督」という存在は非常に希薄で脆弱なものです。サービス開始当初は、ストーリーでも彼と有原翼とを軸に物語が進展していきましたが、女子野球という題材の性質ゆえか、次第に監督の存在は薄くなっていき、いつの間にやらストーリーでも躍動するシーンが見られなくなり、どこからともなく「地蔵」と揶揄されるようにもなりました。さらには誕生日の概念を失い、声帯さえも殺され、ソシャゲのストーリーではほとんど見ない地の文だけの出演へと成り果ててしまいました。

 このように、設定がいまいちカタマリきれてない「監督」という存在。そこに新たな光が指したのは、2018年4月28日に、小説版「八月のシンデレラナイン 北風に揺れる向日葵」が発売されたときでした。

 ソシャゲのおまけとして、ではなく明確に内容でお金を取るためのもの。ゆえにどこぞの美少女お船ゲームのアニメ版よろしく、主人公の存在を抹殺するわけにもいかず、「八上浩太」という名前と人格を与えて、今まで確立されてこなかった「監督」という存在を初めて形あるものにしました。

 この八上浩太は、原作の監督と同様に、ボーイズの絶対的エースでありながら、酷使により右肩を壊すという悲運の日々を過ごしながらも、どこか16歳の男の子らしさを残す、親しみやすく感情移入しやすいキャラに仕上がっています。さらにそれでいて、言動にも棘はなく、まあまさにラノベの主人公としてはうってつけです。

 (様々な要因から)ヘイトを集めがちな監督と比べて、小説から生まれた主人公であるがために、八上浩太が人気を集めるのは当然の摂理だと言えます。


 ……随分話が大回りした気がします。

 今日の話、「名前を借りるということ」とは何か、と言いますと主人公の名前に「八上浩太」という名前を使うことの是非についてのお話です。

 スパイス程度の設定の付加はあったとしても、その人格を大きく逸脱しうるときにその名前を使うべきはない、と僕は考えます。

(2021/04/15 16:29追伸:諸般の事情により、以下の文章を加筆修正しました。)

 決して常に原作に忠実でありたい、だとかそういう話をしているわけではなくて原作設定とかけ離れてしまうときに名前を借りるのが憚れるという話です。スパイス程度の付加は誤差の範囲です。……、まあこのあたりの違いは以下の例を読んでいただければ理解できる話だとは思いますが。

(加筆部分終わり)

 なぜか?それは先程も申し上げたように、あくまで僕の認識ですが「八上浩太」とは独立し確立された存在だからです。

 例え話をします。ハチナイの主人公といえば言わずもがな「有原翼」です。野球星人と呼ばれるほど野球が好きで、色恋沙汰にはみじんの自覚もなくて、野球脳は高いけどお勉強はからっきしだめ。多少の誤差はあるかもしれませんが、有原翼と耳にすればこのあたりの「人格」が思いつくでしょう。

 じゃあ、僕が今からハチナイのSSを書くにあたって、ストーリーの展開として「弱者が這い上がるほうが面白い」からといって、「有原翼」を野球が下手なキャラに改変したとします。

 どうなるでしょうか?

 答えは大批判でしょう。そのキャラは有原である必要がありません。なにか別のキャラを用意すればいいのです。

 この例え話では「大袈裟だ」とか「有原と八上とでは話が違う」と考える人もいるでしょう。そういった考えが間違いだとは言いませんし、否定する気はありません。あくまでこれは僕の考えですし僕の持論です。

 僕の持論だから、認識の僕のものに基づいて成り立っています。「八上浩太」は「有原翼」と並び立つ立派に確立し独立したキャラクターです。無闇矢鱈に設定をいじくり回していい存在ではない。

 これは僕の経験談です。今はもう消してしまいましたが、以前僕はハチナイを題材にしたオリジナル主人公の連載小説を執筆していました。その主人公である監督には、ストーリーの展開上名前を与えなければなりませんでした。散々に考え抜いた末、僕は「八上浩太」ではなく「野村俊哉」という別存在の名前を与えました。

 彼の設定は、八上とはかけ離れたものです。

 まず八上と違って野村は左腕でした。ボーイズ出身ではなく中学軟式出身でした。八上には恐らくいないとされる妹が野村にはいました。八上とは面識がない鈴木健次郎と野村は過去チームメイトでした。生涯対戦のなかった東雲と野村は小学生時代に対戦経験がありました。八上は小学生時代にたった一度の対戦経験があるだけの草刈レナと野村は同じ中学でした。

 ……もう少し相違点があった気がしますが、現状思い出せる限りでもこれほどの違いがある存在を「八上浩太」として抑え込んで良いものでしょうか。

 

 ところで、僕には一つ好きな概念があります。「メアリー・スー」という概念です。

 メアリー・スーの説明は長いので、あくまで簡潔に言いますが「原作へのリスペクトなく、作者自身や作者の理想をふんだんに盛り込んだオリジナルキャラを登場させ、俺TUEEEEする二次創作」ということです。あくまでこれは他人の作品にケチを付けるための概念ではなく、自分が書いた作品にケチを付けるための作品です。

 それを踏まえた上で以下の野村俊哉のプロフィールを見てみましょう。

最速144km/hの伸びのあるストレートと、変化量の多いフォークボール(132km/h)を武器とする本格派左腕。球種としてはチェンジアップ(123km/h)、鋭いスライダー(127km/h)と多彩な球種を持つ。投球フォームは和田毅を彷彿させる出処の見にくいフォーム。それに加え、走り込みで鍛えた持久力と身体の圧倒的な耐久力という持ち味もある。
 守備に関しては、強肩を持つものの送球に若干の不安を残す。守備の経験は、投手と外野手は勿論、部員不足を原因に捕手を除いた全内野の経験がある。
 打撃は、長打力はないもののミート力には群を抜く物がある。バントと言った小手技も得意だが、走力はそれほどないためにセーフィなどは苦手。
 実は生まれつきルーズショルダーを抱えていたために、左肩には相当な負担がかかっていた。結果として、酷使が原因で左肩腱板損傷という怪我を負ってしまった


 原作へのリスペクトなく、作者自身や作者の理想をふんだんに盛り込んだオリジナルキャラを作り俺TUEEEEする二次創作がメアリー・スーです。

 ある時僕は野村俊哉がメアリー・スー以外の何物でもないことに気づき、作品を未公開の海に捨てることにしました。

 じゃあ野村俊哉という存在を八上浩太に同化――異化というべきか――すれば、メアリ・スーは逃れられたでしょうか?

 答えは否。

 よく似た概念で「HACHIMAN」や「U-1」、「スパシン」というものがあります。それぞれ特定の作品での二次創作で使われる蔑称なのですが、要するに主人公を魔改造的に設定改変した作品に使われるモノで、かつ「主に作者が自主的に」使うモノです。

 先程の野村の設定を八上に引っかぶせたとするとどうなるか?

 原作設定とは何もかもが違う、かけ離れた八上に似たなにか……いうなれば「YAGAMI」とでもいう存在が生まれてしまうわけです。

 多少の付加は物語のスパイスとしては悪くないと思います。でもあそこまでやってしまったら、もうそれは八上である必要はないですよね。そういうお話なんです。


 だらだらと書き連ねましたが、せっかくブログという公開的でありながら閉鎖的(ページビューはMAXでも30しかいかないからね!)な空間なので、自分への戒めがてら考えをまとめておこうかな、と。

 以前もツイッター上でこの手の話をしたことがあるんですが、そのたびに何やらきな臭いことになりかけましたので、改めて言っておきたいのですが、

あくまでこれは僕の僕自身の執筆に対する考え方であって、他人に強要しようとかこの考えに基づいて他人の作品を評価しようなどという気は全くありません。

 マジで。

 僕がハチナイSSを書くにあたって、頑なに「監督」だとか「彼」だとかそういう表記の仕方しかしないのはこういうことです。極稀に便宜上「八上浩太」の名前を借りることがありますが、そのときはもう断腸の思いです。


 小説ばかりではなく、定期的にこういう意見文的なのも書いていきたい。どうせ誰も見てないから(笑)

 そう思うシルエットくんなのでした。

 おやすみなさいませ。


 






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